辻くんブログ

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教育に関して

どうも辻真樹です。

今回は、友人から「教育に関する記事を書いてほしい」というお声をいただいたので、僕個人の教育に対する考えを簡単に書いてみたいと思います。(あくまで僕の問題意識、僕の理想を勝手に話してます。読み返しましたが支離滅裂です。近々書き直します)

 

僕が一番興味と関心と問題意識を持っているのは、高等教育に関してです。まあ、一つ「高等教育」と言っても、問題はたくさんあると思いますが、今回はその中でもキャリアに関する事を書きたいと思います。

 

“教育”というと、“学び”とは違い、そこには、「教える側」の存在と「教えられる側」の存在があります。必然的に二者存在します。多くが大学までが「教育」の場として定義されると思います。

とすると、大学までの教育の場が何の目的で存在しているかですが、僕の定義では、「その後の人生をより豊かにするため」というのが大きな目的なのではないでしょうか。そこの大目的を達成するために諸々の要素があるように思います。

そして「その後の人生をより豊かにするため」と定義すると、必然的に教育の場は何十年も先を見据える必要があります。学びを享受する者が、その学びを発揮する時は学びを授かった“後”なので、その学びは、普遍的であるか、未来性を帯びていないといけません。

そこで「先生」という概念が存在します。先生、つまり先に生まれた人はその生徒(子供)の10年後、20年後は想像できたのです。だから、先生は自分の人生を遡って考えてみて、その生徒に未来に活かせる学びを教示することが出来たのです。

しかし、これは、時代の変化が遅いという前提があります。先生が「先に生まれた人」として価値を発揮するのは、その生徒の未来を予測することが出来る時代に限られます。予測できるからこそ、教えることが出来るのです。

つまり、今のこの変化の早い時代、先生は「先に生まれた人」としての価値を発揮することはできません。先生が生きている現在と、生徒が先生ぐらいの年齢になる未来は大きく異なることが予想されるからです。

変化の遅い時代は、今この学びが未来にどう活きるかが予測できました。しかし、変化の速い時代では、今この学びが未来にどう活きるかは予測できません。

事実、これまでの教育で重要視されていた「処理能力」や「知識」は、コンピュータやインターネットの出現でそれほど必須能力というわけではなくなりました。「論理的思考力」も重要視されてきましたが、それらはもうテクノロジーの専売特許となりつつあり、“20年後に無くなる仕事ランキング”などの上位には論理的思考や専門知識を用いる仕事が並びます。

よって、「その後の人生をより豊かにするため」の教育は、「先生が生徒に教える」という構図を改めないといけないのです。では、今、この時代、「その後の人生をより豊かにするため」の教育はどうあるべきなのか、と言うのが私の問題意識の矛先です。

 

そしてこの問題意識の解決策、というか教育の在り方として3つの段階があると考えます。

  1. 予測可能な範囲の未来を学び、予測不可能なことが多いという事も同時に知る。
  2. 個々人に専門性を身に着けさせる
  3. 予測不可能な未来に臨機応変に対応できる力を身に着けさせる。

 

の3点です。それぞれについて説明していきます。

 

  1. 予測可能な範囲の未来を学び、予測不可能なことが多いという事も同時に知る。

2045年問題というのが一般的にも知られるようになってきて、「仕事がなくなる」というセンセーショナルな研究結果も出てきて、今まで以上に「未来」という事に対して知る機会が増えました。未来に対してその可能性も危機感も感じられる事は、学びに対する意欲にもつながると思います。未来がどう変わるのかを知り、そこで僕たちがどう生きるのかを感じる。それは手段としては、既に出されている予測を知るのも良いだろうし、テクノロジーに触れてみるというのも一つです。

そして一方で、これだけ時代の流れが速くなってくると、予測できない事、予測を超えることも出てきます。まずはそういう時代に僕たちは生きているんだという自覚を持たせることがこれからの教育において子供たち、生徒たちに知ってもらうのが第一歩なのではないか、と思っています

 

  1. 個々人に専門性を身に着けさせる。

 未来について考えると、確実に言えることは、テクノロジーの発展です。AIやロボット技術、VRやARなどの拡張現実の技術などは数年前の世間では誰も知らない言葉たちでした。しかし、これからこういった技術は、職場や学びの場でも多く使われるようになっていくのは予測可能だし、これらの技術によって私たちの生き方、働き方も変わっていくだろうというのは大いに想定できる未来です。そこで、例えば、労働というのがこれからの未来でも存在し続けると仮定した時、労働はテクノロジーに任せるには割に合わないような超単純作業と、テクノロジーが発展したとしても代替不可能な専門性の伴う仕事の2極化が進むだろうと思います。

 こういった2極化が進むとき、私たちが「人生を豊かに生きるため」には、後者の仕事に従事することが求められます。教育機関によって、高度化する仕事に対応できるレベルの専門性を身に付けさせるというのが未来の教育の在り方なのではないか、と思っています。

 これは可能か不可能化で言うと僕は可能だと思います。例えば、「専門性が身についた状態」というのを「プロフェッショナルである」と置き換えたとき、マルコム・グラドウェル氏が提唱している「一万時間の法則」を引っ張り出してこれます。これと大学機関を照らし合わせたとき、1日4限、週5日、院まで行ったとして6年間で計算したらちょうど9000時間を超えるぐらいになります。大学で学ぶことによって専門性を身に着けるのは理論上可能なのではないか、というのが僕の仮説です。勿論、この前提として「好きな事をしている」というのが条件としてあります。なので、むしろ重要なのは大学選択です(ここでは、大学機関が教える側として専門分野を身に付けさせられる場だと仮定しています)。高校時代までに1で述べたような未来に対する期待と危機感を感じてもらう。そして、大学選択の段階までにその生徒の興味と関心を作り出す。そして興味関心にあった大学学部学科専攻を探す。 大学に行けば、学びたい事を学ぶ事が出来るというのが僕の理想です。

 

  1. 予測不可能な未来に臨機応変に対応できる力を身に着けさせる。

正直、これが一番大事です。「力」とは僕は2種類あると考えています。

一つは教養です。社会はどうなっているのか、世界はどうなっているのか、自国と他国では何が違い、どんな意見があり、それにはどんな価値観が源泉としてあるのか、それらに対する知識、理解は時代の変化を読み取り、未来を予測して行動指針を決めるうえでは欠かせないものです。また、グローバル化やテクノロジーといったものが僕たちの生活を変えると言われている中で、やはり英語力やプログラミングスキルも同様に教養として学んでいく必要があるでしょう。これらがないと、たとえ専門性を身に着けたとしても、宝の持ち腐れになってしまいます。英語やプログラミング、歴史、文化、道徳、倫理観、宗教など俯瞰的に学ぶ事は今まで以上に大事な事だと考えています。

そしてもう一つは姿勢の問題です。「臨機応変に対応できる力」というと物騒ですが、簡単に言えば、「謙虚であれ」みたいなものです。たとえ、専門性を身に着け社会に出たところで、もしかすれば、その専門性は数十年後には何かに代替されているかもしれません。それはだれにもわからないのです。よって、己の能力を過信せず、常に学び、問い続ける姿勢が大事だと思っています。学びの中でも受動的に知識を吸収するだけではなく、常に問い続ける能動的な姿勢が求められます。「学問」とは「学び問う」と書きますが、世界がどうなっているか学びを通して知り、学びによって世界がどうなっているのかを解き明かしていく姿勢が大事です。

 

長々と書きましたが(既に3000字)、僕自身、教育に関するインプットはまだまだ足りていないと感じています。長くなるのでいくつ説明をふっ飛ばした部分がありますが、それでも3000字になってしまったので、教育に関しては直接どこかで皆さんと議論出来ればうれしいです。

 

では!